骨の髄まで資本主義

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君の愛とやらを、これでいただけるかな? 足りない分はいくらでもすぐに持って来させるさ。

お金で愛が買えるかどうかはわかりませんが、お金がなくて愛を失うことはあるのかもしれないと思います。それで失くすなら愛ではないと言われるかもしれません。

この歌で喜んでくれると信じて疑わないのと、下手だけれど喜んでくれたら嬉しいと思うのは違っていて、前者は子どもが親に対して抱く感情と似ているのかもしれないと思います。そこに上手い下手なんて関係なくて、ただ一生懸命で、そんな姿そのものが全てで、何にも代え難くて、価値云々が入る隙間はない。

果たして大人になって、この歌では喜んでもらうのは難しそうだと気付く。お金がなくても人を喜ばせる方法はあるけれど、旅先でおみやげを買って帰ろうとか、おいしいものを食べてもらいたいとか、誕生日に贈り物をしたいと思うとお金がほしくなります。それはただ自分の見栄かもしれないけれど、時にはたとえ形だけでも、義務であっても、相手が多少でも良い気持ちになる、自分にそれができるとわかっているときがあって、そんなときにこそいくばくか必要になります。

気持ちがなければ届かないとしても、気持ちだけではダメな気がして、それさえあればいいとは思えなくて、かといって黙っていることもできず、ぐるぐると気持ちの向かう何かの周りを回るようなことばかりです。
そもそもお金をかけることと気持ちを込めることとが相反するもののような雰囲気はどうしてなんだろうとも思います。どうやって稼いだお金か、というのは価値に換算されるのかどうか。
気持ちがあるからお金をかける、いやお金をかけるのはそれによって得られるものがあるからで、すべからく自分のためであり云々。

その人の持つ空気感や心の在り方のようなものが、同じ空間にいるだけで自分にエネルギーのようなものを与えてくれるとき、果たして相手がもし同じ感覚でいてくれるのであればそれほど嬉しいことはないのですが、そういう相手に対し、プラスになりそうなものを提供できなそうだと感じると、残念に思います。
その結果おそらく相手と一緒にはいられなくなったり、疎遠になったりするので、結局は自分のメリットを失うことにがっかりしているのか…と思うともはやジメジメする余地もないのですが、相手の人生のひとときにおける登場人物Aとして、はたして自分は何か役割があったのかなあと一瞬思ったりします。もしかしたら宝探しのヒントを差し上げる役割かもしれないし、ただの背景シーンとしての通り過がりかもしれない。何にせよ相手も自分もそれぞれの人生を生きていて、その結果あるいは過程としての関係性があって、そこから何かのきっかけで化学反応が起きるかもしれないし、起きないかもしれない。

全てがギブアンドテイクの関係ならば寂しい気もするし、見返りを期待して一緒にいるわけではないけれど、一緒にいて楽しいとか落ち着くとか話が合うというのはそれ自体価値あるもの、メリットとも捉えられて、そういうのは面白くない考えなのかもしれないけれど、当たり前に受け取っているものが、ほんとうは自分にとってどれほど価値あるもの、あるいは必要なものなのか、時には思い直すのがいいのかもしれないと思います。

時間軸で串刺しにされた色々は、確かに通り過ぎた筈なのに、通り過ぎてしまえばもうそれが存在する(していた)と証明できないし再現もできなくて、でも記憶の中には存在している。それは自分だけのもので、そこにだけ価値を見出せるのかもしれなくて、それゆえ共有している通過点があるというのは強い結びつきを生んで、思い出話に花が咲いたりするのかもしれない。
あるいは、誰と共有できなくても、ただ自分だけが知っていて、自分が死ねばなくなってしまうようなものが、自分にとっては価値のあるものなのかもしれないと思います。

こんなことをぐだぐだと考えることができるのも、関わってくれる人がいたり、健康でいることができて、幸せだからなんだろうと思います。
今年は、自分が今の自分になるために必要だった色々をひとつずつ手放せたような気がして、来年はまた次の自分になるための色々を探しにいく、あるいはそのための準備をするような、そんな年になるのかなあと思います。

一年無事に過ごせたことに感謝しつつ、新しい年が彼にとって彼女にとって私にとって、心安らかに、元気に過ごせる一年でありますように。

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