おまえのものはだれのもの

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アジサイを見かけて、早いなあと思ったらもうじき梅雨の季節でした。

夏が来る前の、もう春ではないような今頃の、夕暮れ時の涼しい時間帯が好きで、ぷらぷらと散歩します。
雨が降った後の草花のにおいや、すこししっとりした空気や風、青さが抜けて薄い色に混じる橙色の空を、しみじみいいなあと感じます。
ふとそんな気持ちは、生きている限りきっとこの先もずっと感じられるのだろうと思ったら、なぜか少し安心しました。

もしかしたらある日突然天変地異が起きてそのような風景もなくなるかもしれないし、ずっと健康でいられるかもわからないけれど、自分の中で好ましく思う気持ちが確かなもので、ずっと好きでいてよくて、誰かと分け合えたらそれも嬉しいし、ひとりでもよくて、ただ眺めているだけでいい。

段々暑くなってきて、その心地よさが遠ざかっていくのを惜しんだりもするけれど、また来年が楽しみだったりもするし、一年のうち違う時期にも似た感じの時があったりするし、夏の夕暮れのあの感じや、秋や冬もそれぞれに好きです。

あまりのお天気に困ったりする時もあるけど、雨が降れば傘を差して、暑ければ薄着をして、寒ければ厚着して、時々の季節を楽しむ。
そこに所有欲や焦りのようなものがないのは、季節の移ろいがこれからも何度もちゃんと巡ってくることに疑いを持っていなくて、自然の流れをコントロールできないことを無意識にもわかっているからなのかなと思います。

どうしてかその人にちょっかいをかけたくなったりして、なにがしかを共有したいような気持ちになる。生きていくのには他人との関係が必要なのだけれど、それをはみだして、ほしいと思ってしまう。
決して自分のものではない、自分とは別の何かであることは、人間に対しても同じ筈で、ただ好ましく思っていればいいのにそれでは足らなくなって、反応が欲しくなったり、反応が返って来てもそれにうなったり、関わりたいとか所有したいという欲求はなんとも強烈だなと思います。

欲求というと何となくあからさまというか、途端に味気ないような感じがするのですが、普段は好きとか別の言葉で認識しているのだろうと思います。
突き詰めると案外冷めてしまうかもしれない、けれどもなかなか冷静になれないのが常だったりして、キレイな感じのする言葉で認識した方が、きっと楽しいし特別な感じがする気がします。
ジャイアンのエピソードのように、共有や共感できっと成長したり助け合ったり生かされたりしていて、けれどもまず自分は自分の人生を生きていて、相手は相手の人生を生きている。

自分に土台を置くということを大事にしていきたいです。

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