嗚呼、わたしは生きていたのか

なすが食べたいあまり即席で踊ったなすダンスに先輩の微笑みをいただきつつ、初めて行く中華料理屋さんに行ったらなすのメニューがありませんでした。
何度メニューを見ても麻婆茄子はなく、先輩が笑ってくださったのでなすダンスは報われたと思いました。
なすは諦めて注文した豚バラ肉の炒め物にすっかり満足し、なすを買って帰りました。

なす5本に豚肉を加えて、これって何人前になるのかしらと一瞬考えながら、浮かれてなすを切っていたら、うっかり指を切ってしまいました。
傷は浅いのになかなか血が止まらず、指先ってそうだったかと、注意が足らなかったことを反省しつつ、その後のなすの扱いはさらに不器用になりましたがおいしくいただきました。

翌日は友人の結婚式で、大量のなす炒めの名残で胃が重いまま、久しぶりに朝早い電車に乗りました。
飲み会明けの大学生と思しき男女を見て、若いなあと、ふふとわらうような、ただ年取ったなと自然に思うことが全然悪くないと感じるのは、ありがたいことなのだろうと思います。

ぼんやり電車に揺られ、痛くはないけど絆創膏の下でまだ血がにじむ指先にたまに気をとられていたら、なぜか、ああ生きていたんだな、と思いました。
今までずっと生きてきて、なぜ今気付いたのか、気付かなかったのか、そもそも気付くも気付かないもないだろうとも思います。

いいことしたとか、頑張ったとか我慢できたとか、わかって欲しくて、楽しかったとか傷付いたとか、辛かったとか、嬉しいこと悲しいことをきいてほしくて、ここにいると誰かに気付いてほしくて、認めてほしくて、年齢も性別も身分も関係なく、自覚したりしなかったりしながら、人間はどこかでそんな気持ちを抱えて生きてるのかなと思いました。

そうしたら、人はなんともいじらしいような、かなしいような存在で、自分もその中の一人であると思えば、大切にする他ない気がしました。
たとえ世の中にありふれたことでも、自分がそれでボコボコになったのなら、それと気付かないで通り過ぎるのはあんまりなのだと思います。
気付いたところで現状が変わるのかと言えば、気付くだけでは変わらないけど、気付かなければいつまでも的外れなことをして、満たされないままな気がしました。

多分、思っているよりもいっぱい自分に気付いてくれてる人がいるのだと、車窓の向こうに見えた海にぽつりぽつり浮かぶ小さな船や、ところどころで集まっているバイク乗りや、犬と一緒に電車を見ている紳士を眺めて思いました。

何かに気が付いたり、変わるためには、行動するしかないのかもしれないし、やってみたいこともあるけれど、同じような毎日の生活の途中や、朝目が覚めて気が付くこともあります。

花が咲く瞬間までの色々が人間の目には見えず、咲いたときに初めてわかるように、ある一定の、気が付くところに達するまでの時間はバラバラで、人それぞれのタイミングがある気がしました。

難しいし、焦ることもあるし、問題意識を持った方がいい方向に向かえるし、そうしないと歩き出せないのだけれど、急かさず、否定もせず、ただ認めること、身近な人や自分にとってのそのときが来るまでじっと待てる、しないという選択も選べるようであってほしいと思いました。
それは可能性を捨てることかもしれないけど、本当に必要なものだけは残してもらえるような、なんとなくそんな気がするのは、今の自分が恵まれている証拠なのだろうと思います。

お天気にも恵まれ、新郎新婦の人柄がよく伝わってくる素敵な結婚式でした。久しぶりに会った友人はとてもきれいで、頼もしいところはそのままで、互いに尊重し合える、本当に大切な人に出逢えたのだなと思いました。おめでとう。

誰かが見守ってくれてることに気付けたり、気付いていると言葉や態度で伝えられる、年を取るごとにそうでありたいと思います。

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