喫茶去

小鍋(ミルクパン?)で牛乳を温めて、香り付け程度にインスタントコーヒーをぱらぱら溶かして、カップに注ぐ。

電子レンジで温めたときよりおいしく感じるのは、火の通りが違うからなのか、それよりは最後にカップに注ぐときに空気を含んでまろやかになるからなのか、よくわからないのですが、表面がちょっと泡立って湯気を立てているのを見るとうれしくなります。

あるいは、お湯を少量沸かして、紅茶のティーバッグを入れて抽出する。そのまま牛乳を注いで温めて、最後にシナモンをぱらり。

冬眠もしないのに秋冬の食欲ときたら困ったものだと思うのですが、加えてなぜか急に牛乳を飲み過ぎています。
そうしてずるずるとコーヒ牛乳(カフェオレと呼んでみたい)ないしはミルクティーをいただきながら、窓の向こうに控えめな太陽の日射しを眺めていると、何の派手さもない、熱くもない、涙もない、楽しいわけでも悲しいわけでもない、ただほのかに何かが息づいているような気持ちになって、寒い季節の日の光りは、自分にとってはまるで魔法のようだと思いました。
枯れ落ちた葉も、道端に咲く草花も、葉を落とした木も、何か特別なものが宿っているかのように美しいと感じます。

何でもない穏やかな日々が大事だと無理に思い込もうとしている、と昔知人に言われたことがあるのを思い出しました。
けれどもこれまでのことは全て、この穏やかさをどれだけ求めていたのか、これが自分にとってどれほど安らぎを与えてくれるものか、気が付くためにあったのではないかと思えるほど、穏やかな太陽の日射しとそれを受ける植物やらの姿は落ち着きを与えてくれます。あるいは、それに気が付くことができないくらいには今まで必死だったのかもしれないと思うと、情けないやらよくやったやら、まあいいかと思います。

この穏やかさを、置かれた状況や周囲の環境と関係なく、ただ自分の心持ちだけで得られるほどには悟りを開いていないので、周りの環境や健康のおかげということを思えば、ずっと続いてほしいと思うけれどもきっとこのままではいられないので、先のことに備えたり動くことが必要なのですが、それでも本当に今の季節は、ただ目を覚ましているだけで幸せに似た何か、もしかしたら幸せそのものを注がれているような気持ちに度々なります。

幸せは一人では得られないものかと思っていたら、どうも違うのかもしれない。誰かと分かち合う喜びはもちろんあるし、分け合いたいと思うけれど、そういうこととは別にして、ただひとりでいて、幸せを感じることはできるのかもしれないと思いました。ぎっしり詰め込んだ感じではなくて、どこか余白のようなものがあって、その隙間があるのでぷかりと漂っていられるような、寂しいのに少しだけ似て、でも全然不安とかじゃない。

窓についた水滴がガラスを伝って落ちていくとき、水滴どうしが引き寄せ合うようにくっついてひとつになって、大きな水滴になる。
人間もひとりだと何となく不安定で、安定したくて、幸せになりたくて恋愛とか結婚とか、あるいは仕事で認められることとか、ただそこに幸せを求めたり、幸せを欲しがってそれをしてしまうと幸せは得られないのかもしれなくて、自分を幸せにできるのは自分だけで、その幸せな自分なら誰かを幸せにできるのかもしれない。
水滴はもともとがひとつのようなものだから、完全にくっつく、あるいはもとの形に戻るだけで、人間はそうじゃなくて、もしかしたら個人の枠をこえた何かがあるのかもしれないけれど、多分どこまでもあなたとわたしで、漸近線のような、でも一回くらいはどこかで交わるような。推測やら疑問だらけでよくわかりません。

誰かを幸せにしたいし自分も幸せになりたいけれど、もし誰かの幸せのためにできることがあるならば、幸せを見つけるお手伝いをすることだけなのかもしれない。幸せは手に入れるものではなく感じるもの、と言われるけれど、いかに感じ取るか、気が付くかなのだろうかと思いました。

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