「いづら、猫は。こちゐて来。」

瞑想に興味があって、瞑想にもやり方が色々あるようなのですが、
以前に座禅会に参加したときには、座って体勢を整え、薄く目を開き、呼吸をしながらただその数を数える、何か考えが浮かんできたら、それと気付いた瞬間にそれを止めて、また数える…と教えていただきました。

瞑想と座禅の区別がついていないのですが、ググってみると瞑想というのは必ずしも座ってするものではないようです。
座ってカタチを作って瞑想するのが座禅…なのか…理解できていないのですが、次々と沸き出てくる思考、すぐにあっちへふらふらこっちへふらふらする自我とは何なのか、今また何か考えてたなあと我に帰る、その我に帰るというのは、我でないどこかに行っていたのか、別の状態に遷移していたのか、自我ってどこかに行ってしまうものなのか、我ってなんだろう、などと思うにつけ、曖昧で頼りない感じがするのですが、何かにつけ我に帰る、自分以外の何かではなく自分の中に意識を置くことが、落ち着きのようなものをもたらす気がします。

気が付くと意識は外に向いていて、それに気が付く度に内に引き戻して、というのに気を付けるうちに、なぜか、膝に乗せた猫がひょいと逃げていってしまって、それをまたひょいと膝の上にのせるような、そんなイメージが浮かんできました。

日頃猫に接しているわけではないので実際のところをよく知らないのですが、思い通りにならない、気まぐれなイメージが重なるのか、本来膝の上から飛び出して行ったのならそれを毎回連れ戻すのってどうなんだろうと思いつつ、そのイメージでいると少しだけ楽しい気がします。

自分というのは、あるようでないような、あったとしても思い通りにならない、不確かなものだなと思いました。
そうやって自分を見るもうひとりの自分、などと書くと、もうなんだろうそれというような、不可解なような、確かなものなどひとつもない、と黄昏れるような呆然とするような…。

今までの状態だと、言葉によって成立した部分ばかりを自分として認識していたのかもしれないと思ったとき、正月早々お酒を飲んだら目が回って、ああ目が回ってるなあと思いながらじっとしていたのを思い出しました。

寒いと動けないとか、眠いとまともに考えられないとか、姿勢の悪さで呼吸が浅くなって落ち着きがないとか、身体が思考に及ぼす影響を軽く見ていたつもりはなかったのですが、思っていた以上に頭でっかちな状態になっていて、不確かなものを確かなものだと信じ込んでずっこけていたような、もっともっとバランスを取り戻す必要があるような気がします。
身体的なものをより意識することで、考え方も変わっていくかもしれないと思いました。

何かを考えて悶々としたとき、あるいはそうなりそうなときには、散歩をしたり、外に出なくてもストレッチをしたり、身体を動かして、いったん悶々とさせる何かから意識を外すことで、心持ちが整う気がします。

地図にピンを立てて現在地と目的地をはっきりさせるように、少しだけクリアになるような、いろいろなものが混ざった水の、混ざり物が沈殿して層になって分かれるような気がして、身体を動かすことは今までに自分が認識していた以上に、とても大切なことなのかもしれないと思いました。


ブログタイトルは「更級日記」より

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です